中野竹子 父:中野平内(江戸常詰勘定係)
母:生沼コウ
1846年誕生 江戸で過ごす
****年養父と共に一時大坂へ
****年備中松山藩主家の
祐筆を務める
1868年会津入り
河沼郡坂下駅で
読み書き、薙刀を教える
会津戦争で戦死
幼い頃から非常に利発で、
父母の期待を一身に背負っていた竹子。
更にその資質を伸ばそうと、
赤岡大輔(会津藩士。文武両道、品行方正で知られていた)
に学問を習うようになるとその才能に赤岡も惚れ込み、
竹子の両親に頼み込んで養女にしたといいます。
短刀と薙刀の技術にも優れ(後に赤岡の道場で師範代を務める)
さらに美人で知られた母の血を受け継いで
才色兼備な女性でした。
ところで、後世に養女となった赤岡の姓ではなく
中野姓で伝えられているのは
養父が自分の息子と竹子を結婚させたいと考えたのに反発したため。
きっぱりと竹を割ったような性格だったのかな。
入浴をのぞこうとした男子に気づくと
薙刀をひっつかんで追い払ったエピソードがあるのも
らしいというか。
会津が包囲されると、竹子は城内で戦うことを選択します。
これに感じ入った母と妹も共に薙刀を持って家を出ますが
新政府軍の進軍は会津藩の想定以上に早かったので
早々に入城規制がかかり、城下は大混乱に。
竹子達も照姫が坂下にいるとの誤報もあって
城には入れませんでした。
この時の服装にも諸説あります。八重よりも先に断髪していたという話も。長刀の名手だった彼女が銃弾で命を落とすのは
皮肉としかいいようがない感じ。
頭を撃たれたとする説も多く見るけど、
ドラマのように胸を撃たれたという話もあります。
ただ、どの逸話にも共通してるのは彼女の首を妹、優子が落としたということ。
すごい…。武家の娘であるという自負はここまでさせるか…。
奥の子が妹、優子だったはず。竹子が用いていた薙刀はその後、流れ流れて骨董店で見つかり、
今も縁の寺、宝界寺に保存されています。
また、涙橋での戦闘から無事帰還できた女性は
合流していた味方の軍勢に護衛をつけて貰い、
後日何とか入城を果たしました。
神保雪父:井上丘隅(譜代・軍学者)
母:トメ
姉:チカ
夫:神保長輝(修理)
1846年誕生
1862年結婚
夫、修理が上洛
1868年江戸へ上る
修理切腹
会津藩士らと共に帰国
会津戦争中に自害
実家は藩祖、保科正之がまだ高遠藩主だった頃から続く譜代の家臣。
嫁ぎ先の神保家は更に上級の家柄でした。
(家老を世襲するまでではないので、西郷家や梶原家等には劣る。)

幕末でなければ、本当に似合いの夫婦で末永く、だっただろうに
夫は藩主、容保が京都守護職になると側近として共に上洛し、
他に替わりのない立場なだけに、
一般の藩士に許されていた1年毎に国許に戻るということもなく、
会津から夫を見送った後、次に再会できたのは
江戸で夫の切腹前という、なんとも幸薄い女性です。
ホントに短い夫婦生活だったけど、
夫の死後は、修理が生前主張していた「恭順論」を
梶原平馬ら若手家老に進言したりしたようです。
(結果を見るに完全に聞き流されてますが。)
そんな彼女が、結局新政府軍に立ち向かって命を落とすのはツライです。
会津が包囲されると、入城はせず戦う準備をして甲賀町口へ向かいましたが
そこで出会った舅、内蔵助にたしなめられ実家に帰宅。
母、姉とともに自害しようとすると、今度は父に婚家と行動を共にするように言われ
またも移動することに。
でも、既に城下には敵軍が入っていて銃弾も飛び交って大混乱だった為、
神保家にはたどり着けなかった様子。
その後の彼女の消息は正味のところ「不明」なのです。
中野竹子が結成したとされる娘子軍のメンバーとして
はっきりと名前が挙がっているわけではないし、
そもそもはじめに甲賀町口に行ったのも
娘子軍とは別行動だったみたいだし。
芦名星さん、とても凛として印象的だった。今回の大河の配役ははずれがないです。でも一方で彼女の最期とされるエピソードは有名。
少なくとも捕虜になった武家の女性は実在したということでしょう。
ドラマでは全く名乗らず
自分がどこの誰か分かることで婚家も実家も自分自身も恥ずかしいことになると
考えていたかのように見えました。
山川登勢 父:北原匡
夫:山川大蔵(浩)
1850年誕生
1868年死去
会津藩の籠城は
約1ヶ月続くんだけど
籠城22日目で
ラストスパートをかけるように
新政府軍の総攻撃が始まって
大砲がばかすか撃ち込まれる
ようになりました。
(城内よりも高台に高性能の砲が据えられていたので、
高確率で被害を被った。)
当時の砲弾は着弾してから爆発するまでにタイムラグがあったので
城内の女性達は爆発を未然に防ぐために
濡れた布で押さえつけて種火を消す荒技を実行します。

ただボンっと爆発するだけでも大変なのに
砲弾の中には早い時期から(元寇の時の「てつはう」とかもそう)
殺傷力を上げる為に中にいろいろ金属やら石やらが詰めてあったんで
会津戦争でのそれも当然そうだったでしょう。
砲弾の処理に失敗した登勢も、
至近距離で複数の金属片を浴びてしまったことが
致命傷となったことが、山川姉妹の三番目、操の手記からわかります。
山川姉妹五番目の咲(後の捨松)も手記を残していて
操といい、会津戦争を若年で過ごした人って、
実にはっきりと現実を書くもんで読んでて息苦しくなるんだけども、
即死ではなかった登勢が姑、艶に
楽にしてくれと必死に介錯を頼む話も出てきます。

艶は籠城前に幼い娘達にも自害用の懐剣を選ばせるなど
冷徹に武士の妻女の最期を全うするよう常々言ってたんですが、
嫁からいざ命を絶てと頼まれると全く動けなかったそう。
でも、ホント、そういうもんだと思うのよね。
ドラマでは登勢のエピソードは描かれなかったけど、
続く健次郎のシーンでの艶の叫びは、
そういう彼女の思いを全部まとめている気がしたよ。
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今回挙げた女性はみんな、若い子ばっかり。
本人にとってはベストを尽くした結果の死だと思うけど
やっぱりツライね。。。